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2010年9月11日 (土)

牽牛子塚古墳の主は    ~ゆうてもええかな~

 菅・小沢両候補の泥仕合、コメントする気にもならない。だからあえて、俗世間から離れた話をしたい。
 奈良・飛鳥にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘調査の結果、7世紀に建造され、白い切石を用いた八角形の古墳であったことが判明した。石室が2室に仕切られていること、石室の側面の大きさ、出土した棺の破片が漆と布を交互に塗り固めた最高級の物であること、出土した女性の歯の年代が特定できることから、天皇クラスの古墳である可能性が高いとしている。日本書紀に、斉明天皇と、その娘である間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したとの記述と一致することから、斉明天皇陵である考えられると、明日香村教育委員会が発表した。
 斉明天皇は、舒明天皇の后であり、天皇崩御後4年間、皇位についている。皇極天皇である。で、話は端折るが、蘇我氏の権勢盛んとなり、その影響を除外したい皇極天皇の子・中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を滅し、蘇我氏勢力を一掃した。大化の改新である。中大兄皇子は自身まだ即位せず、皇極天皇の弟である孝徳天皇を擁立し、飛鳥から難波宮へ遷都したが、大化の改新コンビと仲違いし、崩御すると、皇位は再び中大兄皇子の母、皇極天皇が再び即位し、斉明天皇となった。
 この時代、有間皇子の処刑、権力闘争や、朝鮮半島での唐・高句麗・百済の情勢変化激しく、血なまぐさい話が多く伝わっているが、斉明天皇崩御後、中大兄皇子が即位して天智天皇となり、王朝権力の足固めが始まる。
 宮内庁は、文献から高取町の車木ケンノウ古墳を陵墓と比定し、母子などの明確な証拠がない限り宮内庁は牽牛子塚古墳を天皇陵墓とすることはないとのことだが、歴史的には聖徳太子の時代以後、天智・天武天皇時代の権力掌握まで、飛鳥時代でも権力闘争が激しかった時代であり、個人的には、古事記、日本書紀の記載にならなかった皇位継承争いがあったかもしれないと思うくらい、謎を秘めているかもしれない時期なのだ。
 過去も現代も、権力闘争は絶えないが、古代の方が想像力をかき立てられて面白い。諸兄も気分転換に、いかが。

                     (仲)

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