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2007年4月20日 (金)

結末は銃  ~ゆうてもええかな~

 長崎では、市長が一人。アメリカでは、学生含めて33人。痛ましいことである。
 人は誰でも、小説を最低一冊、書くことができるという。己が人生を、名前を変えて書きつづれば、小説になる。平坦な、誰が読んでも退屈だという人生を歩んでいる人は、まずいない。人に歴史有り、人生に山あり谷あり。新聞に名前が載るようなことをしなくても、人間、何らかの、当人にとっては事件と呼べる出来事に巻き込まれているのである。物心つく前に亡くなるのも痛ましいが、その分、親なり兄弟なり、周囲の人の心に重く残る。
 その結末が『終わり』ではなくて『絶』『滅』というのは、悲しい。いきなりの銃撃で絶命。完結せずに、他人に断たれる無念さは、推し量ろうとしてもできることではない。
 だからどうしろ、と言うことができないのもつらくて、銃があることで起こった事件だから銃さえなくなればいいか、というと、台所にある包丁でもその代役は務まってしまう。国内であれば、池田小学校の事件が記憶に新しいが、私はそれよりも、オウムの幹部、もっと古くは豊田商事会長の、衆人の中での刺殺事件を思い出す。そういった行為に至るまでの過程が、どうだったのか。今週の長崎とアメリカの事件でも、事件の背後関係の報道を見聞きするが、いずれの容疑者も、読み解くのが難しい人生を歩いてきたようだ。銃を手にする過程で、どういった感情を持ったのか、他人とどういう風に関係してきたのか。防ぐことはできなかったのか。
 過去の己の人生を、他人の人生を断つ言い訳にできるはずがない。ひと一人の死は、その人が持っていた有形無形の蓄えを、その周囲の人間が背負わせる。利も、負の蓄えも。普通は徐々に『終わり』に近づくから、周囲の者も背負う腹が据わってくる。しかし、『絶』『滅』『断』では、腹づもりを整える暇もなく、死んだ者の書きつづられるべき小説の続きを取り込まなくてはならない。
 結末は、銃でも、刃物でも、テロでもひもでも鈍器でも、完結とは言えない。完結の邪魔をする者は、断たれた者とその周囲の者の重荷を背負うことになるはず。せめて、容疑者がそういう感情を心に残していることを祈りたい。
                             (了)

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